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「佐藤桜」の事
「佐藤良二」さんを御存知だろうか。
かつて、五箇山地域を含む名古屋市と金沢市の間は、通称「名金線」といわれた国鉄のバスが公共の足となっていた。
このバスの車掌を昭和30年代から40年代にかけてお勤めになったのが、佐藤さん、その人である。
この方の夢、それは、太平洋と日本海を結ぶ道を「さくら」でつなごうというそれは壮大なものであった。
始まりはこうだ。
名金線沿線上にあった、かつて、上白川郷といわれた荘川村、中野地区。
この地域は、前述の庄川電源開発のなかで、最大の事業「御母衣ダム」工事により、水没する運命にあった。
―せめて、村のシンボルである樹齢400年といわれるアズマヒガンサクラの大木2本は、ダムの湖畔に残したい―。
そんな働きかけにより、荘川桜は移植されることになり、大きさと、作業の難しさから(昔から桜切る何とか、梅切らぬ―といことわざがあるように、桜は切ったところから枯れやすい大変デリケートな植物なのです)失敗も予想する声が多い中、それらの事業は見事に成功した。
その様子を始終、バスの車窓や、乗客らの話しぶりから眺めていたのが、佐藤さんであった。
サクラの強い生命力、住民らの切ない思いに胸を打たれた彼は、一大決心をする。
それが、この道、太平洋と日本海をサクラでつなぐ、という夢の実現である。
最初から多難の連続であった。
活動は全くの自費である。サクラの苗木を買い求め、休日を利用して道端の地主1人ひとりに理解を求め、地道に一本また一本と手作業で植え続けた。
せっかく植えても、世界有数の豪雪地帯、雪に折れ、あるいは除雪車に無残に踏み倒された。
それでも、時間を惜しんで植え続けた、その数約2000本。
そして彼を病魔が襲う。
下された診断は、胃がん。
家族の願いも届かず、二度と帰らぬ人となったのが、昭和52年のことであった。
意志を引き継いだのは同僚氏と、彼の姉。
実は、彼が植えたサクラの一部が、五箇山にもある。菅沼の民俗館、上梨の村上家横。
今の季節は春。
やがて見事な花を咲かせてくれるはずである。
現代版花咲か爺さん、佐藤さんの夭折が今も惜しまれてならない。
望むらくは、より多くの人がこの桜を愛でてくれることであろう。
この地球の上に、
天の川のような
美しい花の星座を作りたい
花を見るこころが
ひとつになって
みなが仲良く暮らせるように
(荘川村HPより)
佐藤良二さんによる詩である。
文章:@ゆっけ
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